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お寺の歴史

お寺の歴史 文章

              帝釈寺の歴史について 

 古文書(慶応4年に伝来のものを写しなおした由緒・県史蹟調査第1輯)によると、約1400年前(推古帝21年:613年)、聖徳太子が泰河勝に命じて日向宮崎の神式帝の帝跡である下北方名田の地に国家安泰・宝祚長久を祈願する霊場として伽藍を建立し、往古の因縁に因み(帝跡を寺地としたため)善法山「帝跡寺(ていせきじ)」と号されたといわれる。
 その後82代後鳥羽上皇の御代(1195年頃)、平悪七兵衛景清が伽藍を再興し、「帝跡寺」を「帝釈寺(たいしゃくじ)」と改め、平家一門の菩提を供養したといわれる。
 そして100代後小松天皇の御代(応永2年:1395年)には、宮崎鶴居ケ城主土持民部が、その旧塔を整備し天台宗から曹洞宗に改め、大本山總持寺輪番49代天海希曇(てんかいきどん)禅師を伯州(鳥取県)から請して開山とした。
 この後、15世を経て寺運の衰退を招き、宝暦元年(1751年)、飫肥の長持寺(現在廃寺)より雄嶽大英(ゆうがくだいえい)大和尚が入寺再興し、長持寺の末寺となる。
 明治維新の際、県内の多くの寺院は廃仏毀釈の難に遭ったが、帝釈寺だけは往古の因縁により難を免れた。明治8年(1875年)、美原満堂大和尚が住職し、布教教化・伽藍の復興に尽力し、さらに郡内廃毀の寺院十数ヶ寺を復興する等、その功績多大であったため、明治39年(1906年)4月、大本山総持寺御直末に列せられた。
 第二次世界大戦の戦火で、山門・鐘楼のみを残し伽藍のほとんどを焼失したため、仮設の本堂等により寺院の形態を維持してきたが、昭和38年、当時高千穂相互銀行頭取、猪野勇(いのいさむ)氏は御先祖・御令室の追善のために本堂を建築寄進され、合わせて檀信徒一致団結して本堂内の荘厳・諸設備並びに庫裡・外塀等を新築整備し、往時の伽藍が再現された。
 昭和56年には納骨堂(坐禅堂を含む)が檀信徒の協力により建立され、その後、平成20年に本堂・位牌堂の屋根・外装の大改修工事を行い、翌21年には「善法閣(檀信徒会館)」が新築され今日に至る。
 なお、境内墓地には慶長2年(1597年)の年紀をもつ無縫塔(卵塔:僧侶の墓)があり、また平成2年秋に修理された山門は、江戸時代元禄年間(1695年前後)のものと伝えられる。

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帝釈寺の歴史

(2014-03-11 ・ 149KB)

善法山 帝釈寺
宮崎県宮崎市下北方町戸林5272
TEL.0985-22-3507
FAX.0985-22-3526
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■法要行事■
・ 1月 大般若会
・ 3月 春彼岸会
・ 8月 盂蘭盆施食
       (施餓鬼会)
・ 9月 秋彼岸会
・12月 釈尊成道会

・毎月1回 お寺の集い(梅花講)
・毎月2回 坐禅会
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